雨は、夕方からずっと降っていた。

東京の雨は、田舎の雨のように土へ染み込まない。 アスファルトに跳ね、ガードレールを濡らし、駅の階段を光らせ、 タクシーの屋根を叩き、コンビニのビニール傘を増やしていく。

窓の外では、首都高速の赤いテールランプがゆっくり流れていた。 部屋の中では、テーブルの上に置かれたスマートフォンだけが妙に静かだった。

彼女はその画面を、もう見ないようにしていた。

見ても、何も来ていない。 さっきもそうだった。 十分前もそうだった。 一時間前もそうだった。

それなのに、気づくと見てしまう。

鳴らない電話ほど、部屋の中で大きな音を立てる。

午後七時四十二分。

最後に彼からメッセージが来たのは、午後七時四十二分だった。

「今日はごめん」

たったそれだけだった。

その前に、二人は新宿の地下道で少しだけ言い合いになった。 言い合いと呼ぶほど強いものではない。 けれど、言葉がすれ違い、目線が外れ、傘の持ち方までぎこちなくなった。

彼は仕事の電話に出た。 彼女はそれを見て、少し笑った。 その笑いが、彼には冷たく見えたらしい。

「また仕事?」

彼女は軽く言ったつもりだった。

「そういう言い方しなくても」

彼は、思ったより低い声で返した。

そこから先は、雨に濡れた地下道のように滑った。 何を言っても、少しずつ違う場所へ行ってしまう。 謝りたいのに、説明になる。 寂しいと言いたいのに、責める言葉になる。

最後に彼は、「あとで電話する」と言った。

彼女は「いいよ」と言った。

本当は、よくなかった。

「いいよ」の中身。

日本語の「いいよ」は便利だ。

許しているようにも聞こえる。 諦めているようにも聞こえる。 怒っていないようにも聞こえる。 もう話したくないようにも聞こえる。

彼女の「いいよ」は、その全部だった。

もうその場で話すのは無理だと思った。 でも、本当は追いかけてほしかった。 電話する、と言ったなら本当に電話してほしかった。 「今日はごめん」という五文字だけで終わらせてほしくなかった。

彼からのメッセージに、彼女は返していなかった。

何と返せばよかったのだろう。

「うん」

それでは軽すぎる。

「私もごめん」

それでは簡単に許したように見える。

「電話して」

それが本心だった。 でも、それを書くのがいちばん怖かった。

本当にほしい返事ほど、自分からは言い出しにくい。

雨の音。

夜九時を過ぎると、雨は少し強くなった。

窓ガラスに当たる音が細かくなり、 道路の車の音が濡れた布で包まれたようになった。 遠くで救急車のサイレンが鳴り、すぐに雨の中へ消えた。

彼女は冷めた紅茶を一口飲んだ。 何も味がしなかった。

スマートフォンを手に取る。 画面を開く。 彼との会話を見る。 午後七時四十二分。

「今日はごめん」

既読はついている。 彼女が読んだからだ。 でも、彼女の返事はない。

もしかすると、彼も待っているのかもしれない。 そう思った。

でも、すぐにその考えを打ち消した。

彼は電話すると言った。

だから、待っているのは私だ。

電話しない理由。

彼女は、自分から電話をかけることもできた。

それはわかっていた。 画面を押せばいい。 彼の名前を開いて、電話のマークを押すだけだ。

でも、それができなかった。

先に電話したら、負けたような気がした。 いや、本当は勝ち負けではない。 そんなことはわかっている。 それでも、心はくだらない形にこだわる。

彼が「あとで電話する」と言ったのだ。 その言葉を信じたい。 でも、信じて待っている自分が、少し情けない。

何度も電話をかけようとして、やめた。

彼女はスマートフォンを伏せた。

雨の音だけが残った。

午後九時五十八分。

午後九時五十八分。

スマートフォンが一度だけ震えた。

彼女は、反射的に手を伸ばしかけて止まった。 すぐに取るのは悔しかった。 でも、取らないのはもっと怖かった。

画面を見る。

彼の名前だった。

電話だった。

部屋の中の空気が、一瞬で変わった。 さっきまでの雨の音が遠くなった。 紅茶のカップも、テーブルの傷も、窓の外の光も、 すべてが背景になった。

彼女は深く息をした。

そして、出た。

「もしもし」は、怒りと期待のあいだにある小さな橋だった。

最初の声。

「もしもし」

彼の声は、少し濡れていた。

雨の中を歩いているのだろうか。 それとも、ただ疲れているのだろうか。

「うん」

彼女はそう答えた。

本当は「遅い」と言いたかった。 「電話するって言ったじゃん」と言いたかった。 「ずっと待ってた」と言いたかった。

でも、最初に出たのは「うん」だった。

電話の向こうで、彼が少し黙った。

「ごめん」

今度の「ごめん」は、メッセージの五文字とは違った。

声だった。 息があった。 ためらいがあった。 彼女が待っていた時間を、彼が少しだけわかっているような声だった。

その声を聞いた瞬間、彼女の中で用意していた怒りの一部が、 どこへ向かえばいいのかわからなくなった。

「電話するって言ったから」

「電話するって言ったから」

彼は言った。

「うん」

「でも、何を言えばいいかわからなくて」

彼女は黙っていた。

雨の音が、彼の側にも聞こえた。 やはり外にいるのだと思った。

「さっきの言い方、悪かった」

「私も」

彼女は、自分でも驚くほどすぐに言った。

言ってから、少し悔しくなった。 でも、言わないよりよかった。

「仕事の電話に出たことが嫌だったわけじゃない」

彼女は続けた。

「ただ、今日会ってる間も、ずっとどこかに行っちゃう感じがして」

電話の向こうで、彼が息を止めた気がした。

「寂しかった」

その言葉は、雨の中へ落ちた。

責める言葉の下には、たいてい言えなかった寂しさがある。

傘の下。

「今、どこ?」

彼女は聞いた。

「駅から歩いてる」

「傘ある?」

「ある」

「ちゃんと差してる?」

彼が少し笑った。

「それ、怒ってる人の質問じゃないね」

彼女も、少しだけ笑ってしまった。

「怒ってるよ」

「うん」

「でも、濡れてほしいわけじゃない」

言ってから、二人とも黙った。

その沈黙は、さっきまでの沈黙とは違っていた。 さっきまでの沈黙は、相手が遠くなる沈黙だった。 今の沈黙は、言葉が追いつくのを待つ沈黙だった。

声が戻る。

電話をしているあいだ、彼女は何度も思った。

メッセージだけでは、こうはならなかった。

文字なら、彼の「ごめん」は短すぎた。 彼女の「寂しかった」は重すぎた。 「濡れてほしいわけじゃない」は、きっと妙に照れくさい文章になった。

でも声なら、なんとか届く。

完璧ではない。 整っていない。 途中で黙る。 変な笑い方になる。 それでも、相手がそこにいることがわかる。

声は、言葉の失敗を少しだけ許してくれる。

彼の声が戻ってきたことで、 彼女の中に閉じていた会話が、少しずつ開いていった。

言えなかった一言。

「今日、本当は楽しかった」

彼女は言った。

彼はすぐには答えなかった。

「うん」

少ししてから、彼は言った。

「俺も」

「だから、最後がああなって嫌だった」

「うん」

「楽しかったって言いたかったのに、言えなかった」

彼は、今度はすぐに言った。

「言ってくれてよかった」

その一言で、彼女はようやく少し泣きそうになった。

泣くほどのことではない。 たぶん、他人に説明したらそう言われる。 でも、恋の中では、泣くほどのことはいつも小さい。 短い返事。 遅い電話。 言えなかった感想。 雨の帰り道。

恋は、大きな事件ではなく、小さな言葉の遅れで壊れかけることがある。

もう一度、会う約束。

電話は、三十分ほど続いた。

最初は謝罪だった。 次に説明になった。 そのあと、少しだけ笑い話になった。 そして最後に、次に会う話になった。

「今度、ちゃんとごはん行こう」

彼が言った。

「今日もごはんだったけど」

「今日よりちゃんと」

「仕事の電話なし?」

「できるだけ」

「そこは、なしって言って」

彼が笑った。

「なし」

彼女は、ようやく窓の外を見た。 雨はまだ降っていた。 でも、さっきより少しやさしく見えた。

何も解決していないのかもしれない。 それでも、会話は戻ってきた。

電話を切るとき。

「じゃあ、また明日」

彼が言った。

「うん」

「今日は本当にごめん」

「もういいよ」

彼女はそう言ってから、少し考えた。

「いや、まだちょっと怒ってる」

彼がまた笑った。

「正直でいいね」

「でも、電話してくれてよかった」

今度は、彼が黙った。

「うん」

その「うん」は、濡れた道の上から届いた。 少し遅れて、でもちゃんと戻ってきた声だった。

電話が切れたあと、部屋は静かになった。

でも、さっきまでの静けさとは違っていた。

折り返し電話は、部屋の静けさまで変える。

通話履歴。

彼女は通話履歴を見た。

午後九時五十八分。 通話時間、三十二分。

それだけの数字だった。

でも、その数字の中に、雨の音も、彼の息も、 自分の「寂しかった」も、次の約束も入っているように見えた。

通話履歴は、内容を残さない。 でも、声が通った時間を残す。

彼女は、その履歴を消さなかった。

消す必要もなかった。

その夜の電話は、特別な告白ではなかった。 大げさな愛の言葉もなかった。 でも、待っていた声が戻ってきた。

それだけで、十分な夜だった。

翌朝の雨上がり。

翌朝、雨は止んでいた。

道路にはまだ水たまりが残り、ビルの窓には薄い朝の光が反射していた。 駅へ向かう人たちは、昨日の雨などなかったように急いでいた。

彼女は改札の前でスマートフォンを見た。

彼からメッセージが来ていた。

「おはよう。昨日、電話できてよかった」

彼女は少し笑った。

そして、今度はすぐに返した。

「私も。今度は遅れないで」

すぐに既読がついた。

そして、すぐに返事が来た。

「電話も?」

彼女は階段を降りながら、短く打った。

「全部」

最後に。

雨の夜の電話は、二人の関係を劇的に変えたわけではなかった。

ただ、言えなかったことが少し言えた。 待っていた声が戻ってきた。 すれ違った言葉が、電話の中で少しだけ向きを変えた。

それで十分だった。

恋は、いつも大きな出来事で進むわけではありません。 ときには、午後九時五十八分の着信で進みます。 雨の音の中で、誰かが「ごめん」と言う声で進みます。 伏せていたスマートフォンが光る、その一瞬で進みます。

返事を待つ時間も、恋だった。 でも、返事が戻ってきた瞬間もまた、恋でした。

東京の雨は、夜の終わりまで降っていた。 けれど彼女の部屋では、もう雨だけが鳴っているわけではなかった。

さっき戻ってきた声が、まだ少し、窓辺に残っていた。

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鳴らなかった電話にも、物語がある。

返事が来る夜もあれば、来ない夜もあります。 けれど、待っていた時間は消えません。 それは、誰かを大切に思った証拠です。